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特別コラム 第29回「グリーンクリエイターとして生きる(活きる)」

コラム

2022年8月31日

特別コラム 第29回「グリーンクリエイターとして生きる(活きる)」

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジで環境経営やSDGsなどについてセミナー講師を務めさせていただいておりました。

今回は、「グリーンクリエイターとして生きる(活きる)とはどういうことか」について私の自説をご紹介したいと思います。

ただし私の自説(我説?)ですので、皆さんなりに考えてみてくださいね。

■グリーンクリエイターとして生きる(活きる)って?

少し大げさなタイトルですが、グリーンクリエイターとして、何を心がければいいのでしょうか。この問いには、普遍的な正解などありません。ただ、「グリーンクリエイターは“常”に地球にやさしくなければならない」と力んでいては長続きしないでしょう。

ここでは、私のこれまでの活動で気づいたことの中から、参考にして頂けそうなものをいくつかご紹介したいと思います。

1.楽しむことが第一!

本質的に、「人は苦しいことは嫌いで、楽しいことが好き」です。やはり「楽しいこと」がキーワードだと思います。「グリーンコンシューマーやグリーンクリエイターになって地球を救おう!」と訴えるよりも、笑顔いっぱいで楽しんでいる様子を見てもらう方が遙かに効果的です。実例をご紹介しましょう。

もう20年以上も前の話になりますが、仲間30人くらいで河川敷のゴミ拾いをしました。「燃えるゴミ班」と「燃えないゴミ班」の2つのグループに分かれて、一生懸命ゴミを拾いました。

結果は、トラックに積みきれないくらいの量が集まり、一応の効果は確かにありました。しかし、みんなの顔には満足感にはほど遠い、不満や怒りの表情が浮かんでいたのです。気になった私たち主催者は、全員に今日の感想を聞いてみることにしました。

すると「こんなに多くのゴミを捨てる人の気がしれない。本当に腹が立った」とか「私たちがゴミ拾いをしているのに、周りの人は誰も手伝ってくれない。ひどいのは犬の散歩をしている人や自転車に乗っている人から『邪魔やないか、いくら良いことをしているつもりでも、通行人に迷惑をかけたらあかんで』と怒鳴られました。私は悔しくて泣きそうになりました」という訴えが多数返ってきたのです。

なぜ世の中にはそんな(心ない)人がいるのかという話題に終始していたとき、ある人がこんな発言をしました。

「みんな周りの人が悪いようにいうけど、ボクたちに問題があったのと違うやろか。みんなゴミを拾ってたとき、真剣なんは分かるけど、ものすごく怖い顔してたで。ボクやったらそんな仲間に入りたないわ」。

この言葉にほとんどの人が絶句してしまいました。

「確かにそうかもしれない。自分もそんなグループに入るのイヤやし、人にもすすめたくないわ」というのが参加者の偽らざる気持ちでした。

では、どうすればいいのでしょうか。みんなで話し合いました。とっくに予定の時間は過ぎていたのに誰も帰ろうとしません。

その結果、「やはり楽しむことが一番。ゴミ拾いそのものが目的になってしまうから楽しくないんだ」ということになりました。そこで、アイデアを出し合ったところ、「野鳥観察をしながらゴミ拾いをする」、「野草や薬草の実地研究会をしながらゴミ拾いをする」、という楽しそうな企画が生まれたのです。

そこで、早速この2つの企画を実行したところ画期的ともいえる成果が生まれたのです。まず何よりも楽しいこと。野鳥観察には「日本野鳥の会」のメンバーの方にきていただき、野鳥の名前、種類の見分け方、生態などを双眼鏡片手(両手?)に教えていただきました。

野草研究では、メンバーの中に詳しい人がたくさんおられたので、それぞれ情報を出し合いました。「薬草の見分け方」「こうすればこの野草は美味しいお茶になる」「料理の仕方」などがポンポン飛び出し、「よくそんなところまで知ってるな」と感心しきりでした。

さらに見たこともないような野草が見つかったとき、草花辞典を取り出し、みんなでああでもないこうでもないと議論するなど、和気あいあいの雰囲気に包まれたのです。

ところで、肝心のゴミ拾いの方はどうなったのでしょうか。

心配ご無用。前回以上のゴミが集まっていました。集めたという意識はありません。ただ気がついてみたら集まっていたのです。

しかし、収穫はこんなものではありませんでした。

前回あれほど誰も手伝ってくれなかったはずなのに、今回は、周りの人が進んで手を貸してくれました。釣りをしている人も、「ここにもたくさん空き缶があったよ」とわざわざ持ってきてくれるのです。そして、犬の散歩や自転車に乗っている人も「何やってるの、なんだか楽しそうやね」と興味津々でのぞき込んできました。そして、帰り際に「ありがとう」といわれるのです。

ちなみに、前回と今回とはまったく同じ場所でゴミ拾いをしたのです。日本と外国での話ではありません。

私たちは、周りの人が手伝ってくれない、あるいは非難するのは、私たちの方に問題があったということを肌で学ぶことができました。楽しく、笑顔で活動していると、強引に誘わなくても自然に輪が広がっていくものなのですね。

2.要求から応援へ

私たち人間は、「対立関係」を作りだすのが得意なようです。「電力会社」対「地域住民」、「企業」対「消費者」、「国土交通省(旧建設省)」対「ダム反対派」などです。このような対立関係を作り出すことこそ、問題解決を遅らせる元凶なのです(なのだと思います)。

原子力について言えば、電力会社のすべての社員が「原子力発電所建設」に賛成しているわけではありません。農林水産省の職員全員が「減反」に賛成しているわけではありません。社員や職員に尋ねてみると、むしろ反対している人が多いくらいです。以前、旧建設省で講演したことがありますが、「もはや開発ありきの時代ではない」ときっぱりと言い切る人が多いことに驚いたくらいです。

これを国家規模にまで拡大しても、同じことが言えます。以前アメリカが温室効果ガス削減のための「京都議定書」から離脱したからと言って、国民全部が政府を支持しているわけではありません。むしろ、人数としては支持していない方が多いのです。

企業と消費者の対立を考えてみましょう。

グリーンクリエイターは、買い手の立場としては「環境に配慮して商品を選択する生活者」です。しかし、環境に配慮していない商品を見つけたとき、「選択しない=買わない」では、相変わらずその商品は販売され続けることになります。「環境によくないものは、そのうち淘汰される」とは言うものの、グリーンコンシューマーが数少ない現状では、かなり長い間、その商品が店頭に並ぶ(売られ続ける)ことになるでしょう。

これを防ぐ方法として、以前から「抗議」「要求」という方法がとられてきました。「環境に悪い商品を作るな!……さもないと不買運動を起こすぞ!」というものです。残念ながら、このような形で抗議・要求されて、「はい、分かりました」と製造を打ち切る経営者はめったにいません。人間は攻められたとき、防御の態勢をとるものです。

私はこのようなとき、要求ではなく「応援」という方法をとることにしています。「環境によくないものは買わないけど、良いものだったら応援するわよ」ということです。

これは決して理想論ではありません。おもしろい実例を示しましょう。

ある女性からこんな相談を受けました。

「○×中華料理店に行ったとき料理が残ってしまったので、お店の人に『持ち帰ってもいいですか』と尋ねたんです。そしたら、『それはできません』という返事。食中毒の恐れがあるからですって。その時はすごすご引き上げたけど、後で何かもったいなくって……どうしたらいいと思います?」

そのとき私は、「応援の手紙」という方法を紹介しました

「経営者に応援の手紙を書いてみてはどうですか。まず、あなたの素直な気持ちを書きます。『料理がとてもおいしかったけど、持ち帰れなくて残念だった。でも、お店としたら食中毒が発生したら大変だし、気持ちも分かります」というように。そして、『もし持ち帰りができるようになれば、たくさんの友達に安心して紹介できると思います』とあなたがして欲しいことを書くのです」

彼女はすぐに実行しました。1週間後、そのお店は「持ち帰りが可能」になりました

もしここで、「けしからん。もったいないじゃないか。生ゴミが増えるし、第一その処理はどうしてるんだ。持ち帰りをOKしてくれないなら、もう絶対に食べにこないぞ!」という「抗議の手紙」だったらどうでしょう。おそらく、実現されることはなかったと思います。事実、それまで実現していなかったのですから。人間の心理は、「抗議されると“できない理由”を探し、応援されると“できる方法”を見つけ出そうとする」もののようです。

ですから、反原発のために「電力会社の総体」に抗議するよりも、「電力会社の中で自然エネルギーの普及を促進しようとしている社員」を応援する方が、脱ダムを「国土交通省の総体」に要求するよりも、「同省の中で、自然河川の復元や森林再生を推進しようとしている人たち」を後押しする方が効果的だと思います。

アメリカに対しても、「議定書離脱はけしからん。不買運動して国を潰すぞ!」と抗議するのではなく、「地球環境のことを真剣に考えて行動している企業やNGO」を応援してはいかがでしょうか。アメリカが京都議定書という約束事を反古にしたのは、わがまま以外の何ものでもないと思います。しかし、「途上国が参加しない限り、地球温暖化は防止できない」というのも、また事実なのです。

私はここで、「いかなる場合でも抗議・要求するな」と言っているわけではありません。その国や企業に1人でも「環境にやさしい人」がいる限り、その人を応援すべきではないかと言うことなのです。大勢の中で「1人だけ」というのは、とても勇気がいることです。この勇気ある人こそ、「1人から社会を変える可能性のあるグリーンクリエイター」です。抗議・要求・不買運動は、「地球にやさしい人」が1人もいないことを確認してからでいいのではないでしょうか。

先の中華料理店の例では、結果として、お店の廃棄物処理費用を削減することになりました。もし私たちが「賞味期限を何日か延長することを認めるとしたら」、「へこんだ缶でも許すとしたら」、「ピザの配達が規定の時間より遅れることを許すとすれば」、「野菜の虫食いを許すとしたら」、「本の汚れを許すとしたら」、「受け入れ検査で発見した僅かなキズを許すとしたら」……全国で膨大な廃棄ロスを防ぐことができるでしょう。これらは、環境負荷の削減だけでなく、お店(企業)の利益にも貢献していることになります

私たちは、「許す」という形で「応援」することもできるのです。

3.二者択一の議論から抜けだそう

地球環境問題への関心が高まり、至る所で環境グループ(NPO、NGO)が生まれ、それぞれの活動を行っています。

ただ最近、少し気になることがあるのです。それは、環境問題についての議論の多くが、AかBかという二者択一を求めているように感じることです。

たとえば次の議論について、講演会後の懇親会などでよく質問されます。

「お皿についたマヨネーズをティッシュでふき取るのと水で洗うのとでは、どちらが地球にやさしいのですか?

「マヨネーズは大量の水で薄めないと魚が生きていけないので水で洗うのは良くない。だからティッシュで拭き取る方が地球にやさしい」、「ティッシュを使えば森林破壊につながるし、それを燃やすと二酸化炭素が出て地球が温暖化してしまう。また木がなくなるということは水を蓄えることができなくなり、淡水資源もダメになる。だから水で洗う方が地球にやさしい」など、立場の違いによる意見の対立が見られます。

確かに、どちらの意見も事実ですし、正解の1つと言えるでしょう。

でも、「お皿にマヨネーズがつかなければ水もティッシュもいらない」のです。この場合、「お皿についたマヨネーズをどうするか」という視点で議論する限り、それぞれ自分の都合の良いデータを集めることに精いっぱいで、なかなか事実は見えてこないものです。

少し視点を変えると、「マヨネーズを必要なだけキャベツにつけて食べればお皿は汚れない」、など、第三のアイデアが出るものです。これだけ言っても、「でも、注意していてもお皿にこぼれたりする場合もあるでしょう」と食い下がる方も(ほんのわずかですが)おられます。

そんなときは、「お皿をなめればいいのです。イヤだったらフランス料理のスープのように、パンなどですくって食べたらいかがですか」と笑って答えることにしています。

もう少し考えを進めると、「そもそもマヨネーズをつける必要があるのか、マヨネーズがなくてもおいしく食べられるのでは……」というような、いわゆる「脱マヨネーズ」の発想も生まれくるでしょう。

そして、「マヨネーズが必要になったのは、野菜がおいしくなくなったから。野菜がおいしくなくなったのは、農薬や化学肥料を使ったために土が死んでしまったから」というように、次第に根本原因に向かって気づきが深まっていくのです。

このように、環境問題(それ以外でも)の特徴は「議論に勝った方が正しいとは限らない」、「AかBという議論を越えたところでC、D、E……という本質的な答えが得られることが多い」ということを肝に銘じておく必要があると思います。

環境保全派と開発推進派との間、環境グループ同士、またグループ内で意見の対立が生じたとき、「私たちはAかBかの議論に陥ってしまっているかもしれない。視点を変えて考えてみようよ」と提案してみてはいかがでしょうか。ひょっとすると、目から鱗が落ちるような、新鮮でしかも両方が満足するアイデアが生まれてくるかもしれません

4.みんな違ってみんないい

私は、これまで環境問題から学んだことは数多くありますが、なかでも最も感動したのは「この世界は多様性で成り立っている」ということです。まさに金子みすゞさんの「みんな違って、みんないい」の世界です。

◆違うから面白い

この宇宙には無数の星があり、それぞれの星には無数の生命(有機物)や無機物が存在しています。この地球上にも数千万種の生物や数限りない無生物が溢れています。また同一種の中であったとしても「まったく同じもの」はひとつとして存在しません。その意味で、この世の中は「違うもの」の集合体といえます。つまり「違うこと」が当たり前なのです。このことはもちろん「人間」にも当てはまります。姿形が一人ひとり違うことは当然ですし、育ってきた環境によって知識、経験、価値観が違うのも疑いようのない事実です。

ここで、自分が他人と「違う」ということは、自分に代わって他の人が違うことを体験してくれるということを意味します。つまり自分と他人が違うのは、「個々の体験を分かち合い、また集めることによって、より多くの体験を人間の知恵として蓄積できるから」ではないでしょうか。ということは「違えば違うほど面白い」また「違う人がたくさん集まるほど知恵が出る」ことになります。これこそが多くの人が存在する意味だと思います。

◆なぜ違いを認識できるのだろう?

なぜ私たちは『違い』を認識できるのでしょうか。

少し哲学的になりますが、私は「違うこと以外は『すべてが同じ』だから」と考えています。人間は、「同じ部分よりも違った部分の方に意識が向きやすい」ということをゲシュタルト心理学でも言っています。

人間に限定したとしても、脳や身体の構造はすべての人種に共通していますし、肌の色などは無限の共通点の中のわずかな違いに過ぎません。DNAレベルでは、違いを見つけることすら困難です。チンパンジーと人間の間でも、DNAの98パーセントは同じということです。共通領域には気にも留めずに、わずかに違った部分が気になって気になってしかたがないというのが人間のサガかもしれません。ケンカしている人の話を聴くと、どちらも同じことを言っていると感じることがよくあります。地球で起こる戦争にしても、宇宙人から見ると、「同じ考えにしか思えないけど、どうして争うの」と不思議な感覚を持つことでしょう。ケンカや戦争は「少しだけ違う」からこそ起こるように思います。

私が環境問題で講演していると、当然のことながら反発(反論)される人が時々おられます。しかし、よく話し合ってみると、実はものすごく考え方が似ていて、ある箇所だけが違っていたという場合がほとんどなのです

こんな理由から、私は「反発は『ほとんど意見や価値観が同じだよ』というサイン」と受け止めることにしています。

世の中のほとんどの企業で、「他社との違いを明確にして、わが社の利点を訴求せよ」と差別化戦略を謳い上げていますが、躍起になって違いを探さなければならないほど「同じ」なのです。

◆違いを『分かち合う』『活かし合う』方向に!

私は、下図のように「違い」に対して人間がたどる4つのルートがあると認識しています。

私たちは、「違い」を認知した場合、ルートBのように「分ける」ことにエネルギーを注ぎがちになります。確かに現代文明は「分ける」ことによって知識を広げ、発展してきたことは事実です。しかし、統合を忘れて「分ける」ことばかり追究しすぎたために、専門が極端に分散し、枝葉末節に陥ってしまっているのが現状ではないでしょうか。

ルートBをたどれば、「分ける」ことに飽きたらず、区別から差別、さらには奪い合いへと進み、やがて戦争などの「殺し合い」へと暴走してしまうことが往々にして起こります。せめて区別した時点で、ルートAの「認め合う」方向に軌道修正したいものです。

また、認知した後、ルートCのように「無視する」こともよくあります。これは、直面する事実を避けることになり、多くの場合、好ましいとは言えません。とくに、認知した対象が人の場合は、相手(自分の場合もある)の価値を軽視することで、人と人とのつながりを切ってしまうことになります。

私にとって最も悲しいのは、違いにすら気づかない(無関心)というルートDです。無関心というのは「無条件の愛」や「慈悲」の対極に位置します。最近の青少年の凶悪犯罪などに接し、この無関心が世間に蔓延しているように思えてなりません。

日本人の多くは「みんなと同じでないと安心できない」「人と違っているといじめられる」など、「できるだけ人と同じでありたい」という欲求が強いと言われています。

それは、とりもなおさず、「現在の日本社会がルートB・C・Dをたどっている」ことを物語っているのではないでしょうか。とくにルートD(無関心)の傾向が強まっているように感じます。

ルートAに方向転換するために、私は第一歩として「認め合う」ことから始めています。そうすれば、それが「分かち合う」喜びにつながり、やがてそれぞれの違い(個性)を「活かし合う」社会(持続可能な社会)が実現するのではないでしょうか。

【出典:拙著「これで解決!環境問題-2003年」】

この図は私(立山)の私見です。学術的に認められた定義ではないことにご注意ください。

次回はバックキャスティングという手法を用いて2100年の地球ビジョンを描いてみたいと思います。

コラム著者

サステナ・ハース代表、おおさかATCグリーンエコプラザ環境アドバイザー

立山 裕二